MUNCH’S LIFEムンクの生涯

私の芸術は自己告白である
—スケッチブックより(1927-34年)

1863年、ノルウェーの歴史学者や聖職者を輩出した家系に生まれたムンクは、病弱だった幼少期に母や姉など身近な家族の死を体験し、やがて画家になることを目指します。

祖国とパリやベルリンなどを行き来し、世紀末の思想や文学、ポスト印象派などの芸術と出会うなかで、世紀末の象徴主義的な精神風土や、家族の死、女性関係など自身の抱えるトラウマに根差した独自の画風を確立。

アルコール依存や神経症に悩まされる時期もあったものの、徐々に国際的な評価を築いていきました。そして不安や孤独など近代的な人間の感情を強烈なまでに描き出したムンクの芸術は、20世紀における表現主義潮流の先駆けとなりました。

晩年にはナチスにより頽廃芸術としての烙印が押される一方、祖国の国民的な画家となります。

世紀末から20世紀へと移り変わる激動の時代のなか、作品と共に膨大なテキストを書き残し、展覧会の構成を手がけ、自らその芸術像を描き出そうとしました。

葛藤の生涯

年齢表記は、没年齢を除き満年齢

1863
0
12月12日、ノルウェーにて軍医クリスチャン・ムンクと妻ラウラの第二子・長男として誕生
1868
5
5人の子どもを残し、母ラウラが結核で死去
1877
14
一歳年上の姉ソフィエが結核で死去
Episode 姉の死
幼少より病弱だったムンクは1877年14歳の冬、吐血と高熱で死の恐怖に苛まれた。ムンクは回復したが、姉ソフィエは母と同じ結核を患い、数日で死に至る。愛する姉が息をひきとった椅子を生涯手放さず手元に置いた画家は、その死を主題に油彩や版画の作品を繰り返し制作した。
オースゴールストランにて
Episode 姉の死
幼少より病弱だったムンクは1877年14歳の冬、吐血と高熱で死の恐怖に苛まれた。ムンクは回復したが、姉ソフィエは母と同じ結核を患い、数日で死に至る。愛する姉が息をひきとった椅子を生涯手放さず手元に置いた画家は、その死を主題に油彩や版画の作品を繰り返し制作した。
オースゴールストランにて
1880
17
クリスチャニアの画学校(後の王立美術工芸学校)に入学
1889
26
クリスチャニアにて初個展。レオン・ボナの画塾に通っていたパリ留学中に父を亡くす
Episode オースゴールストランの家
パリ留学に出る前、ムンクはオスロ・フィヨルド沿いの小さな漁村に小屋を借り、のちに購入をした。そこは人妻ミリー・タウログとの初恋の舞台となった地でもあった。画家が多くの夏を過ごした、オースゴールストランの地。その神秘的な月夜の浜辺は、男女の性愛を主題とする作品でしばしばその背景をなしている。
1892
29
ベルリン芸術家協会の招きで開かれた個展が一週間で打ち切りとなる(のちにベルリン分離派の誕生に繋がる「ムンク事件」)
Episode 「ムンク事件」
パリ留学後、故郷での個展を機にベルリン芸術家協会の招待を受けて国際舞台にデビュー。《病める子》など初期代表を含む個展だったが、印象派も浸透していない当時のベルリンで憤慨や嘲笑を買い、1週間で閉幕を余儀なくされた。ムンクを時の人にしたこの”スキャンダル”は、のちのベルリン分離派誕生の端緒にもなった。
1893
30
ベルリンにて劇作家アウグスト・ストリンドベリらボヘミアンたちと交流。〈生命のフリーズ〉の中核をなすこととなる《叫び》《吸血鬼》《マドンナ》などの代表作を発表
1895
32
弟アンドレアスが死去
1898
35
オースゴールストランに小屋を購入
1902
39
第5回ベルリン分離派展に出品。コダック・カメラを購入。トゥラ・ラーセンとの破局で銃の暴発事件が起こり、左手中指の一部を失う
Episode 女性との愛憎
1898年に出会った裕福で進歩的な女性トゥラ・ラーセン。彼女と各地を放浪するムンクだったが、帰国中、結婚を迫るトゥラとの間に銃の暴発事件が起こる。左手中指の一部を失った後は欧州各地で個展を成功させる一方、アルコール依存や神経症に悩まされていく。
ベルリンのアトリエのベットに腰掛けるムンク
Episode 女性との愛憎
1898年に出会った裕福で進歩的な女性トゥラ・ラーセン。彼女と各地を放浪するムンクだったが、帰国中、結婚を迫るトゥラとの間に銃の暴発事件が起こる。左手中指の一部を失った後は欧州各地で個展を成功させる一方、アルコール依存や神経症に悩まされていく。
ベルリンのアトリエのベットに腰掛けるムンク
1908
45
コペンハーゲンで神経衰弱を起こし、ダニエル・ヤコブソン博士の診療所に8か月間入院。聖オラヴ勲章騎士章を授与される
1909
46
クリスチャニアでの個展成功や国立美術館による作品5点購入など、祖国での評価を確かなものとする。長い放浪生活を終えノルウェーに帰国。クリスチャニア大学(現オスロ大学)講堂の壁画コンペに取り組む
Episode 祖国への帰還
自身の絵を「子供たち」と呼び、簡単に手離さなかったムンク。帰還後、ノルウェー南部のクラーゲルーの家を手に入れ、自作に囲まれた制作を続けた。絵に艶の出るワニスを施されるのを嫌った画家は、時に「子供たち」を暴風や雪にさらす「荒療治」を行い、傷がつくことにも頓着せずに野外アトリエでの制作を好んだ。
1916
53
大学講堂の壁画完成。クリスチャニア郊外エーケリーに家を購入。晩年のほとんどの時間を過ごす
1919
56
クリスチャニアでの個展にあわせて小冊子『生命のフリーズ』を出版
1926
63
妹ラウラが死去
1927
64
ベルリンとオスロで大回顧展が開催される
1930
67
眼病を患う。写真でセルフポートレートのシリーズを制作
《硝子のベランダの自画像》
エドヴァルド・ムンク 《硝子のベランダの自画像》
1930-33年 油彩、板 45.5×55.0cm
1933
70
聖オラヴ勲章大十字章を授与される。ムンクに関する研究書が2冊出版される
1937
74
ドイツにてムンクの作品82点が頽廃芸術としてナチスにより押収される。国立美術館にムンクのための展示室が開設される
1940
77
ナチスがノルウェー占領。全作品をオスロ市に遺贈する遺言状を作成
1944
80
1月23日 、エーケリーの自宅にて死去
Episode 画家の死
1940年以降のナチスによる占領下も、ムンクは戦争を避けるように生活していたが、1943年12月の誕生日直後、付近の港での爆破の衝撃で、家の窓ガラスが吹き飛んだ。寒さからムンクは気管支炎を患い、その 1ヶ月後の1944年1月、膨大な作品が残されたエーケリーの家で独り亡くなった。遺言に従い、画家が所有していた 全作品はのちにオスロ市に遺贈された。
エーケリーの居間でのムンク
Episode 画家の死
1940年以降のナチスによる占領下も、ムンクは戦争を避けるように生活していたが、1943年12月の誕生日直後、付近の港での寒さから爆破の衝撃で、家の窓ガラスが吹き飛んだ。寒さからムンクは気管支炎を患い、その 1ヶ月後の1944年1月、膨大な作品が残されたエーケリーの家で独り亡くなった。遺言に従い、画家が所有していた 全作品はのちにオスロ市に遺贈された。
エーケリーの居間でのムンク
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